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東京高等裁判所 平成6年(ネ)1096号 判決

控訴人

医療法人社団○○会

右代表者理事長

福家文吉

控訴人

A

B

右控訴人ら訴訟代理人弁護士

土谷明

被控訴人

乙山夏男

乙山春男

乙山花子

右被控訴人ら訴訟代理人弁護士

重松彰一

森本雄司

二宮征治

牧野芳樹

主文

本件控訴をいずれも棄却する。

控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実及び理由

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人ら

1  原判決中控訴人らの敗訴部分を取り消す。

2  被控訴人らの請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用は第一・二審とも被控訴人らの負担とする。

二  被控訴人ら

本件控訴をいずれも棄却する。

第二  事案の概要

次のとおり付加、訂正するほか、原判決の「事実及び理由」第二に記載のとおりであるから、これを引用する。

一  原判決の訂正

1  原判決八枚目表三行目の「右下腿」を「左下腿」に改める。

2  同一〇枚目表八行目の「四七分」の次に「に八〇/四〇と低下し、更にそ」を加え、同行の「六〇〜」を「六〇以下」に改める。

二  当審における主張

1  控訴人ら

(一) 感染症について

感染症の局所所見は、発赤、疼痛、腫脹の三主徴のほかに局所熱感、排膿、圧痛等である。被控訴人夏男については、昭和六一年一二月一九日以降のいかなる時点においても、右の感染症の局所所見は認められていない。更に、後日浜松医科大学医学部附属病院でプレートによる内固定手術を受ける前後においても、骨髄炎を併発せずに完治している。すなわち、全経過を通じて、一度も骨折の局所に細菌感染を合併していないのであって、初期診療とその後の抗生剤の投与を含めた治療管理が適切であったことを物語っている。

被控訴人夏男の白血球は、同月一五日が九六〇〇、同月一八日が六一〇〇、同月一九日午後四時二三分が一万四九〇〇、CPRは、同月一五日が四プラス、同月一八日が三プラスで、体温は全体的に解熱傾向にあった。感染があった場合、五日間の経過中、解熱し、白血球が正常化し、CRPが改善するという経過をたどる訳がない。同月一九日の白血球増多は、脂肪塞栓症によると判断される末梢循環不全の生じた後のものであるので、術前感染の有無を示す指標にはなり得ないものである。なお、手術当日の三七度以上の発熱については、細菌感染の所見を認めない以上、骨折部の感染以外の原因を考えるべきである。

(二) 貧血について

一般的に、大きな骨折があれば、必ず相当な出血を生じ、相応の貧血を呈する。被控訴人夏男には、小さな開放創があったため、六〇〇ミリリットルないし一〇〇〇ミリリットルの出血が推定され、ヘモグロビン11.2の数値は矛盾しない。この程度の貧血は、手術や麻酔を差し控えるべきリスクにはなり得ない。一般に、ヘマトクリット三〇パーセント、ヘモグロビン一〇が輸血を考慮すべき指標とされているが、実際の臨床現場では、ヘモグロビン7.5前後までは輸血を行わないようにするのが、今日の常識である。ヘモグロビン11.2から11.5程度の貧血は呼吸不全を増悪させる要因にはなり得ないからである。同月一九日の赤血球は三一八万、ヘモグロビンは10.4、ヘマトクリットは30.9であって、これをもって貧血状態が改善されなかったとはいえない。

被控訴人夏男の貧血は、同月一五日から一八日にかけて改善傾向に向かっており、これは骨折部の出血が止まり、赤血球の合成が進んでいたことを示している。同月一九日の血算は、午後四時二三分の採血によるものであり、急速に貧血の進行する何かが起こったことを意味するが、右の貧血を説明できる出血源はない。これは脂肪塞栓症時の末梢循環不全に起因するもので、脂肪塞栓症の診断基準に合致する。そもそも、同月一九日四時二三分以後の貧血は、同日の麻酔中に生じた急変以降の出来事で、本来、術前の貧血状態を評価する指標にはなり得ない。

(三) 脂肪塞栓症について

脂肪塞栓症は、骨折直後、骨折に対する手術中、骨折の整復時、患者の体動時などに瞬時にして起こるものである。そして、脂肪滴は肺を通過するのであり、肺の障害は軽微でありながら、脳に重大な障害を起こす脂肪塞栓症が少なからずあるのである。被控訴人夏男については、術中、急激な肺の障害が発生したことは間違いがなく、そのことは、同月二〇日に泡沫、淡血性スプータが多量であったことからも裏付けられるし、△△脳神経外科医院(以下「△△医院」ともいう。)において心陰影の拡大まで認められている。これは脂肪塞栓症診断基準の大基準に合致する。

(四) 脳障害の原因について

(1) 控訴人Aは、△△医院の院長に経過の若干を申し送ったのであって、看護婦に申し送りをしたのではない。同医院の入院時看護記録の「無R七分程」との記載は、看護婦が手術中に生じた脳障害なのだから無Rによるものに違いないという先入観に従ってしたものと推測される。しかしながら、麻酔医が麻酔導入してからずっと患者の枕元でマスクを左手に、バックを右手に持っているのに、七分間無Rを放置して何もせずにいることなど、想像することさえ困難である。

(2) 被控訴人夏男は、麻酔中に血圧、脈搏とも心停止を予測させるような危機的状態には一度も陥っていない。挿管直前の血圧は六〇、脈搏は七六/分であって、心停止とは程遠い状態であった。なお、同月二六日の血液ガス分析のPaO2一八八は、四リットル/分の酸素吸入下で測定されたもので、単純に正常と判断すべきものではない。

(五) △△医院に転院後について

被控訴人夏男は、同月二三日に笑顔を見せ、同月二四日には面会人と会話するようになったが、これは、脳障害が一過性のものであったことを物語るものである。その後、同控訴人には、痙攣を伴った急激な意識障害が生じ、回復するのに一か月以上かかっている。これは、同月一九日の手術中と同様の出来事が起こったものと考えるのが妥当である。

(六) 控訴人らの責任について

被控訴人夏男には、開放骨折はあったが、感染症は鎮静化されており、貧血も改善傾向にあり、手術を行うのに不適当な状態にはなく、また、被控訴人夏男の脳障害は脂肪塞栓症によるものであるから、控訴人らには責任がない。

2  被控訴人ら

(一) 感染症について

控訴人らの主張は、証拠上認められる客観的状況を無視した主張である。採血する部位によっては、末梢循環不全で循環不良のために血液の濃縮が起こり、一部のデータが高値を示すことがあるが、六一〇〇であった白血球が翌日には一万四九〇〇になるほど濃縮されることは考えられないので、炎症が増悪したためであると判断するほかない。また、CRPは、感染症のみによって陽性になるものではなく、種々の組織損傷によっても陽性となるが、CRP三プラスとか四プラスなどという高い値は、下腿骨骨折程度の単なる組織損傷のみでは得られないものであり、白血球の増多や発熱、骨折部の傷の状況なども併せ考えれば、感染症が存在したことを示すものというほかない。

(二) 貧血について

被控訴人夏男の貧血状態は、改善されずに継続していたのであって、控訴人らの主張は誤った事実評価を前提とするものである。昭和六一年一二月一五日及び同月一八日の血液一般検査の当時、被控訴人夏男は、かなりの脱水状態にあったのであって、その検査のデータのみからその当時の貧血状態が軽度であったということはできないのであって、右数値の示す異常の貧血状態であったと判断されるのである。貧血は術前から続いていたのであり、それが同月一九日午後四時二三分のデータに表われているのである。

(三) 脂肪塞栓症について

淡血性スプータは、低酸素血症では常に考えられる症状であり、そのときに心陰影が拡大して撮影されることは何ら矛盾しないのであって、脂肪塞栓であると特定する根拠とはなり得ないものである。

(四) 脳障害の原因について

(1) △△医院の入院時看護記録の「無R七分程」との記載は、被控訴人夏男が同医院に転院された際、控訴人Aが同医院の院長である△△医師に申し送りとして説明したものを、その場に立ち合っていた同医院のC看護婦がその職務としてそれを聞き取って記載したものであり、同控訴人が述べなければ記載できない事柄であるから、十分信憑性がある。

(2) 控訴人らの主張は、用語の医学的定義やある一時点のデータの一部のみにこだわった誤った主張である。動脈血ガス分析PH7.266という数値が著名なアシドーシスを示すものであることは何人も否定し得ないものである。右数値は、呼吸抑制による酸素欠乏と炭酸ガス貯留の結果生じた値であり、異常発生に気付いた後に行われた緊急挿管による操作により、換気状態が改善され、高炭酸ガス血症が改善された結果が、右ガス分析結果に表われたのである。

(五) △△医院に転院後について

控訴人らの主張は、誤った前提事実に基づく誤った見解である。

(六) 控訴人らの責任について

争う。

第三  争点についての判断

当裁判所も、被控訴人らの本訴請求は、原審の認容した限度で理由があるものと判断する。その理由は、次のとおり付加、訂正するほか、原判決の「事実及び理由」第三に説示のとおりであるから、これを引用する。

一  原判決の訂正

1  原判決一三枚目表二行目の「プラス四と」を「四プラスで」に、同五行目の「プラス三と」を「三プラスで」にそれぞれ改める。

2  同一五枚目表四行目の「注射し、」の次に「マスクで酸素を与えて」を加え、同裏二行計の「徐脈と」を削り、同三行目の「六〇〜」を「六〇以下」に改める。

3  同一八枚目裏九行目の「であり」から同末行の「ならない」までを「である」に改める。

4  同二四枚目表七行目の「プラス三と」を「三プラスで」に改める。

二  当審における主張についての判断

1  感染症について

(一) 控訴人らは、被控訴人夏男には、全経過を通じて一度も骨折の局所に細菌感染を合併していない旨主張する。

そして、乙第一四一号証(帝京大学医学部麻酔科助教授稲田英一の意見書)、第一四五号証(同人の鑑定意見書)及び当審証人稲田英一の証言(以下、これらを合わせて「稲田意見」という。)は、一二月一五日の血液検査では'CRPが四プラスで、白血球数に軽度の上昇(九六〇〇/mm3)と発熱(三八ないし38.1℃)が見られ、これは外傷による反応性の変化か感染が原因と考えられるが、同月一八日の血液検査では、CRPは三プラスと改善し、白血球数も六一〇〇/mm3と正常範囲に戻り、同月一八日及び同月一九日は36.5ないし36.9℃と平熱に戻っているので、手術当日までには感染は鎮静化されていたと判断でき、感染症の再発や遷延を思わせる徴候はなく、抗生物質の長期使用による耐性菌出現の危険などを考えると、抗生物質の中止は適切な判断であったと考えられるとしている。

(二) しかしながら、甲六四号証(順天堂大学医学部麻酔科学教室教授宮崎東洋の鑑定意見書。以下「宮崎意見」という。)及び当審鑑定人奥秋晟の鑑定結果(以下、単に「鑑定結果」という。)によれば、① 開放性骨折があった場合、直ちに手術を行うかどうかは、創の清潔度によって決定されること、② 被控訴人夏男については、一二月一九日、骨折部におよそ三cm程度の傷があり、一部壊死に陥っており、発赤、熱感、圧痛等の炎症反応があったこと(乙三)、③ CRPは炎症のみならず種々の組織損傷によっても陽性となるものであるが、CRP三プラスとか四プラスという高い値は、下腿骨折程度の組織損傷では得られないものであり、白血球数増多や発熱、骨折部の様相等を併せ考慮すると、一般の臨床医であれば、まず感染を疑い、この段階で創部の確認を行うのが普通であるが、担当医は、この点について、何らの留意もしていないこと、⑥ 手術の前々日である同月一七日に抗生物質の投与を中止しているが、数日間抗生物質を投与したからといって、これを抗生物質の長期使用ということはできないのであって、この時期に抗生物質の投与を中止すべき客観的状況にはなかったこと、以上の事実が認められる。右の事実及び原判決認定の事実によれば、被控訴人夏男は、本件麻酔施行当時、感染症に罹患していたものと認めるのが相当である。右認定に反する稲田意見は、前記証拠に照らして措信することができない。

したがって、控訴人らの前記主張は、採用することができない。

2  貧血について

(一) 控訴人らは、一般に、ヘマトクリット三〇パーセント、ヘモグロビン濃度一〇が輸血を考慮すべき指標とされているが、ヘモグロビン濃度11.2から11.5程度の貧血は呼吸不全を増悪させる要因にはなり得ないから、実際の臨床現場では、ヘモグロビン濃度7.5前後までは輸血を行わないようにするのが、今日の常識であるところ、被控訴人夏男の一二月一九日の赤血球数は三一八万、ヘモグロビン濃度は10.4、ヘマトクリットは30.9であるから、この程度では、手術や麻酔を差し控えるべき状態にあったとはいえない旨主張する。

そして、稲田意見は、被控訴人夏男が手術前に貧血の状態にあったことを認めた上、貧血のもつ最大の問題は、ヘモグロビン低下による全身組織への酸素運搬量の低下であるが、心機能の正常な患者では、心拍出量を増加させることにより、ヘモグロビン低下による酸素運搬機能の低下を代償できるところ、被控訴人夏男の場合は、手術当日の一二月一九日午前六時一五分の血圧は一四〇/七〇mmHg、心拍数は七四/分で、循環血液量の減少を示唆する所見はなく、また、同月一五日及び同月一八日のヘマトクリット値、ヘモグロビン濃度及び赤血球数とも術前に改善傾向がみられているとした上、一般的に、ヘマトクリット値三〇、ヘモグロビン濃度一〇が輸血開始の基準とされることが多いので、貧血に対して輸血を行わなかったことは、適切な判断であったといえるとしている。

(二) しかしながら、宮崎意見及び鑑定結果によれば、① 一般に、出血があって血液量が減少すると、血管外から水分が血管内に移行して減少した血液量を補うように働くため、血液は希釈されてヘマトクリット(血液中に含まれる細胞の量の割合)が低下するところ、脱水があると血管内に移行する水の量が減少し、右低下の度合が少なくなること、② 被控訴人夏男においても、入院後麻酔を受けるまでの間、十分な食事や水分の摂取ができなかった時期があること(乙二)、③ △△医院における検査結果でも尿比重が1.040又はそれ以上(健康者の尿比重は1.002から1.030の間を同様しているのが通常である。)を示している(乙二四、二五、四九、五〇)ことなどから、脱水状態にあったと判断されるので、赤血球数、ヘモグロビン濃度及びヘマトクリット値の検査数値よりも、実際は貧血の度合が高度であったと考えられることが認められる。

右の事実及び原判決認定の事実によれば、被控訴人夏男は、一二月一五日の検査当時貧血状態にあったものであり、同月一八日には一旦やや上昇したが、同月一九日には同月一五日よりも更に低下しているのであって、本件麻酔施行当時、貧血状態は未だ改善されていなかったものと認めることができる。右認定に反する稲田意見は、前記証拠に照らして措信することができない。

なお、控訴人らは、輸血を行うべきであったか否かを問題にしているが、本件において、貧血の有無は、麻酔を行うに当たっての注意義務との関係で問題とされているのであって、輸血をおこなうべきであったか否かが直接問題とされているのではないのであるから、輸血を行うべき基準が控訴人ら主張のように判断されていても、直ちに控訴人らの責任を否定する事情とはならないというべきである。

3  脂肪塞栓症について

(一) 控訴人らは、脂肪塞栓症は、骨折直後、骨折に対する手術中、骨折の整復時、患者の体動時などに瞬時にして起こり、かつ、脂肪滴は肺を通過するのであり、肺の障害は軽微でありながら、脳に重大な障害を起こす脂肪塞栓症が少なからずあるのであるところ、被控訴人夏男については、術中、急激な肺の障害が発生したことは間違いがなく、そのことは、同月二〇日に泡沫、淡血性スプータが多量であったことからも裏付けられるし、△△医院において心陰影の拡大まで認められていることは、脂肪塞栓症診断基準の大基準に合致する旨主張する。

そして、稲田意見は、脂肪塞栓症においては、多くの場合に肺障害がみられるが、臨床的に明らかでない場合もあり、胸部X線写真において脂肪塞栓症候群に特徴的な像が見られるのは、二〇ないし三〇パーセントと報告されているところ、被控訴人夏男の場合には、△△医院の一二月二〇日午後一時の観護記録に、「泡沫、淡血状のスプータ多量なり、肺水腫疑うも所見なし」と記載されている(乙九四)ところからして、胸部X線写真の所見は明らかでなくても、肺に何らかの障害があった可能性がある旨、及び脂肪塞栓症候群についてのGurdの診断基準に照らすと、肺胞動脈血酸素分圧較差の拡大を呼吸不全の徴候とすれば、大病像のうちの二つ(呼吸不全、脳症状)を満たしており、小病像では、基準をゆるくとれば三つ(発熱、頻脈、腎変化)、基準をきつくとれば一つ(頻脈)を充たすことになり、また、鶴田らの診断基準に照らすと、大基準のうち二つあるいは一つ(胸部X線上病変を認めないため)、中基準のうちの一つ(ヘモグロビン値低下)、小基準のうちの三つ(頻脈、発熱、血小板減少)を満たしているので、少なくとも、脂肪塞栓症候群を起こしていた疑いがあるとしている。

(二) しかしながら、宮崎意見及び鑑定結果によれば、① 脂肪塞栓症は、骨髄内に存在する脂肪細胞から流れ出た脂肪滴が静脈内に流入し、これが右心室を経て肺動脈の細い部分にを閉塞して症状を現すものばかりでなく、脂肪が脂肪分解酵素(リパーゼ)により分解して液状となり、肺動脈を通過して全身の臓器組織に液状の脂肪として取り込まれ、遊離脂肪酸となって化学的に活性化され、これが全身の毛細管組織の障害を来たし、全身の組織の機能を損なうもので、全身の血管に起こる可能性があり、したがって、全身の臓器に障害が発生する可能性があること、② しかし、脂肪塞栓症は、血液の流れの多い臓器に変化が現われやすいので、全ての血液が通る肺に最も起こりやすく、次いで、脳、腎臓、肝臓、皮膚の症状が挙げられること、③ 脂肪塞栓症が発症するのは稀であり、その症状は多彩で、特異な症状を示すものではないので、その診断が難しいこと、④ 脂肪塞栓症の診断基準も、確定診断をするための絶対的なものではなく、これに掲げられているような症状がある程度揃ったときに、脂肪塞栓症を疑うことができるという程度の基準であって、現時点では、病理解剖を行う以外に、確定診断をすることができないこと、⑤ 肺は全ての血液が流れる臓器で、多くの血液が肺毛細管を通るのであるから、肺に何らの障害を認めないのに、他の臓器(例えば脳)に障害を及ぼす脂肪塞栓症は考え難いこと、⑥ 単一の下腿骨折によって脂肪塞栓症が発症することは非常に稀である上、骨折後一週間後に発症することは更に稀であること、⑦ 脂肪塞栓症における肺障害というのは、本件で問題とされているような正常と異常の境界領域で論議されるようなものではなく、もっと高度なものであること、⑧ 被控訴人夏男に脂肪塞栓症が発症したことが疑われている直後の胸部X線写真(乙一一二)には、脂肪塞栓症に特有の所見とされる吹雪様の所見のみならず、肺病変を疑うべき所見は認められない(心陰影が大きく見えるが、仰臥位の写真であるから、これによって心不全とすることには問題がある。)こと、⑨ 淡血性スプータは肺水腫が発現したかも知れないことを示すものではあるが、これは脂肪塞栓症に特有なものではなく、低酸素血症では常に考えられる症状であること、以上の事実が認められる。右認定に反する稲田意見は、前記証拠に照らして措信することができない。

右の事実によれば、被控訴人夏男に脂肪塞栓症が発症したものと認めることはできないというべきであり、控訴人らの前記主張は、採用することができない。

4  脳障害の原因について

(一) 控訴人らは、控訴人Aは、△△医院の院長に経過の若干を申し送ったのであって、看護婦に申し送りをしたのではなく、同医院の入院時看護記録の「無R七分程」との記載は、看護婦が手術中に生じた脳障害であるから無Rによるものに違いないという先入観に従ってしたものと推測される旨、及び被控訴人夏男の挿管直前の血圧は六〇、脈搏は七六/分であって、心停止とは程遠い状態であり、麻酔中に血圧、脈搏とも心停止を予測させるような危機的状態には一度も陥っていない旨主張する。

(二)(1) 確かに、△△医院の入院時看護記録の「無R七分程」との記載だけで、直ちに被控訴人夏男に無呼吸状態が七分間程度生じたものと認めることはできないが、鑑定結果及び原判決が認定するその前後の同人の状態をも併せ考えると、同人には、少なくとも約七分間呼吸不全の状態(そのうち午後一時四七分から一時五〇分ころまでの約三分間は呼吸停止の状態)にあったことが認められる。

(2) そして、右(1)に判示したところ及び鑑定結果によれば、昭和六一年一二月一九日午後一時五二分ころに採血された血液のガス分析の結果は、BE(base exess)がマイナス8.3であり(乙一六)、このことは、組織での酸素欠乏の結果、無酸素性代謝が行われたことを示すものであり、この値は、それぞれ個人差があり、かつ、異変発生前の血液・組織の酸素化の状態が異なるので、明確にその程度、時間を確定することはできないものではあるが、異変が発生する前に酸素を投与しておけば、組織の酸素欠乏が起こりにくいのに、被控訴人夏男の場合には、酸素を投与していても、なお、組織の酸素欠乏を示唆する所見があったのであるから、同人の呼吸循環には相当程度の障害があり、これが脳障害の原因となったものと認められる。したがって、心停止を予測させるような危機的状態に陥っていないことを前提とする控訴人らの主張は、採用することができない。

5  △△医院に転院後について

(一) 控訴人らは、被控訴人夏男は、同月二三日に笑顔を見せ、同月二四日には面会人と会話するようになったが、これは、脳障害が一過性のものであったことを物語るものであり、その後、同控訴人には、痙攣を伴った急激な意識障害が生じ、回復するのに一か月以上かかっているが、これは、同月一九日の手術中と同様の出来事が起こったものと考えるのが妥当である旨主張する。

(二) しかしながら、宮崎意見及び鑑定結果によれば、酸素欠乏後の脳障害であっても、ある期間が経過してから痙攣が再発することは、しばしばあることであり、また、被控訴人夏男が、痙攣の再発後に意識を消失したのは、痙攣を押さえるために使用した薬剤(ホリゾン、フェノバールーいずれも睡眠作用がある。)によるものであることが認められるので、控訴人らの前記主張は、採用することができない。

6  控訴人らの責任について

(一)  控訴人らは、被控訴人夏男には、開放骨折はあったが、感染症は鎮静化されており、貧血も改善傾向にあり、手術を行うのに不適当な状態にはなく、また、被控訴人夏男の脳障害は脂肪塞栓症によるものであるから、控訴人らには責任がない旨主張する。

そして、稲田意見は、被控訴人夏男には、開放骨折はあったが、感染症は鎮静化されており、貧血も改善傾向にあり、手術を行うのに不適当な状態にはなく、控訴人Bの麻酔管理は不注意であったといえるかも知れないが、呼吸停止に対しては、気管内挿管、酸素投与など迅速・適切な処置が行われており、重大な過失とは言い難く、また、被控訴人夏男の脳障害は脂肪塞栓症候群の可能性が高いとしている。

(二)  しかしながら、感染症、貧血及び脂肪塞栓症に関して控訴人らの主張するところが理由のないものであることについては、既に判示したとおりである。そして、鑑定結果によれば、被控訴人夏男が脳障害を負うに至った原因は、麻酔施行中に発生した呼吸抑制によって酸素欠乏状態に陥ったためであること、及び控訴人Bは、被控訴人夏男の術前の状態を十分に把握することなく漫然と麻酔薬を投与し、麻酔施行中は、同人の呼吸・循環状態を十分に監視すべきであるのに、暗い部屋で手術を行ったこともあり、同人の胸郭の動きを十分に注視することを怠ったため、同人が呼吸困難により酸素欠乏の状態に陥り、チアノーゼが生じたのにその発見が遅れたことが認められる。

したがって、控訴人らには、原判決が認めたような責任を否定することはできない。

よって、原判決は相当であり、本件控訴は理由がないからこれを棄却し、控訴費用の負担につき民事訴訟法九五条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 塩崎勤 裁判官 瀬戸正義 裁判官 西口元)

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